だめ連ラジオ……閉塞した現代社会の突破口とは?

先に記した「オールド左翼・アナーキスト+パンクス・ヒッピー・陰謀論・貧乏論について 」で「貧乏論」の界隈として「素人の乱」とともに「だめ連」について触れました。

「だめ連」とは、「だめ」とされる「あり方」を否定的に捉えるのではなく、開き直って自由に生きていこうとする集団のことです。
一時期、雑誌などで取り上げられたことはあったものの、長く休止状態にありました。

しかし、2011年から活動を再開しています。そして、特にこの1〜2年くらいは目立った活動を行っています。例えば、三鷹駅前に勝手に美術館を作る「路上アート展」を行ったり、北浦和で「やってられるか資本主義」と題した交流会を開いたり、5月1日に中野駅前で独自のメーデーを開くなど、規模は小さいながら視点はユニークです。

「だめ連ラジオ」の「熱くレヴォリューション!」の公開収録イベントが特に印象深く、閉塞した現代社会を突破するヒントになる内容もあると思ったので紹介することにしました。「だめ連」の神長恒一さん・ペペ長谷川さんが政治学者として活躍し、社会運動についての様々な著作がある栗原康さんをお呼びして話を聞くという内容です。

印象に残った部分をメモ書きします。

前編:「奴隷根性」「生の拡充」がキーワード

「極限まで来た時代の中で、どう生き抜いていくのか」が問われている。その中で「やりたいようにやっていくしかないんじゃないか」を突破口にする。

今の社会の根っこには奴隷制がある。
古代から社会は主人と奴隷の関係で成り立っている。
奴隷は主人にとってどれだけ役に立つのかによって価値が測られる。
この価値とは労働力のこと。
こうした仕組みは近代の資本主義社会にもつながっている。

●長時間労働させられているだけなのに、給料が上がって自分はすごいんじゃないかと思わされている
●同僚がダメだったら優越感を感じたりすることが普通に起こる

資本主義の論理、お金・名声に囚われる。人生は他にもっといいことがあるはずなのに、奴隷根性に縛られる。自分が奴隷じだと思わずに主人だと思って奴隷をやってしまうことがありがち。
例えば、「自分に投資してスキルアップ」は新自由主義(ネオリベラル)的な価値観。

本当に自由を追求するのだったら、スキルアップとか関係なく「ダメでいいじゃん」「他の生き方があってもいいじゃん」といった方向に行くべき。

「奴隷根性を脱する」ことだけでなく、「生の拡充」を求めることも重要。

「生の拡充」とは、人が生きる力を広げ、生きる充実感を感じること。

決められた筋道に拘るのではなく、はじめからやってはいけないこともないでしょ。はじめから役に立たないことは関係なくて、好きなことをいくらでもやっていいでしょ、と言った視点に立つことが「生の拡充」という考え方。

後編:脱原発運動の問題と展望

「人の評価はどうでもいいから街頭に出て感じましょう」と言っていた人たちも「今は違うんだ」「国策を変えるためにも動員型でもいいから人を集めなければいけないだ」みたいな雰囲気になって危機感を持った。
それは、国家がやろうとしていることをこっちもかぶっているのではないか。
そういうものを疑ってみる必要がある。

原発事故の直後は開放感を感じた面もあった。
事故が起こったら国家は何もできない。
今まで「将来のために生きなければいけない、だから今は耐えろ」みたいに言われていた。しかし、国家が生活を保証する、それに乗っかって自分の将来を設計するみたいなモデルが弾け飛んだ。「将来のために」というのは幻想でしかなく、「何もないつもりで今を生きる」ことを重視しなければならない。そういう開放感を感じる。そっちを強調してもいいのではないか。

生まれてから資本主義社会が当たり前だと思っている。「資本主義から抜け出る」を考えた場合、「原発はダメだ」ということと「資本主義はダメだ」ということは似ている。
「では、どう生きるの」って問うた場合、すごくハードルは高くなる。しかし、「ダメでもいいじゃん」くらいの感じの開き直りがないと、資本主義社会の中で植えつけられた価値観から抜け出せない。これは、原発反対とか言うことにも通じる。

今こそ、「ダメだ」と開き直って生きるのが大事だということ。

ひどい状況になっていて、原発もこういうことになって生きるか死ぬかといった状況になっていて、こういう傾向が強くなっていくので、「もう我慢できない」と開き直って、資本主義的な価値観を拭い去ったほうがいい。

「縛られないで生きていいんだ」ということを伝えていかなければならない。

資本主義でこの社会システムで生きていくのが当たり前になっているから、そうじゃない生き方をしている人がいることを知るだけで常識が崩れていく。そういうことを伝えていくことが重要。

鎌倉時代の一遍上人の生き方が似ている、魅かれるものがある。一遍上人は持っているものを捨てた。それでも生きていける。それを示して行ったのが一遍上人。